創業3年目にリーマン・ショックが起こって生き延びた話

新型コロナが世界を揺るがしている今、当社もフルリモートに舵を切りつつある。
もともと社内コミュニケーションはチャットとクラウドベースなので、割とスムーズに移行できている。

ところで今の経済状況的に、よくリーマン・ショック時と比較されることが多い。

いろいろ状況が違うこともあると思うが、スタートアップがこの状況にどう対応するべきかの参考になるかと思い、そのとき起こったことと、どう乗り切ったのかを公開してみたいと思う。

ピクスタの創業は2005年8月、事業開始が2006年5月なので、リーマン・ショックが起こった2008年9月は、創業からちょうど3年後、事業開始から2年半後である。

一般的にWebプラットフォーム事業の立ち上げから2〜3年後というのは、やっと形になってきたぐらいで、売上も大きくなく、まだまだ赤字を掘っている状況である。

創業1年後の2006年11月にシリーズAとして6000万円を調達し、その後オフィスを拡大、人員も10人を超えた。

その後の2008年当時はPIXTA事業のみ展開しており、月商200〜300万円程度、営業赤字は月間300〜500万円であった。(ちなみに現在は売上100倍…!)

当時はスタートアップとして資金調達を定期的に行いながら投資を続けていた。しかしすでに2007年中盤ぐらいから、サブプライムローン問題が表面化し、調達環境は徐々に悪化していった。

当時は独立系VCは少なく、金融系VCとCVCがメインであった。またエンジェル層もほとんど存在していなかった。

当時記憶にあるのは、それまである程度積極的に検討してくれていたVCが、だんだん消極的な反応になり、バリエーションもよくて据え置きだったら検討可能、という雰囲気に急に変わっていった。そして検討は遅れがちになり、最後には赤字幅が大きいということで基本断られるパターンになった。

そうこうするうちに銀行残高がみるみる減っていくので、とにかく会ってくれるVCには軒並みアプローチをしながら(合計20社近く)、借り入れにも動いた。借り入れは幸い国金(今は政策金融公庫)と信金から2500万円ほど借りることができた。

しかしそれも2008年の春ぐらいには銀行残高が1000万円を切り、ギリギリの状況になってきた。そこで既存VCから少しずつ追加出資を受けながらも、可能な限りのコストカットを試みた。

・役員2人の報酬を半分に

・新規採用はストップ

・シリーズA調達後に恵比寿に借りたおしゃれオフィスを解約し、株主であるガイアックスの子会社の隅っこにあった空きスペースに間借りした

・当時社外役員でいろいろサポートしてくれていた、現役員の内田さんの報酬月3万円をゼロに
(内田さんはそろそろ上がるかもと思っていたらしいw)

特に自前オフィスから間借りに移るときには相当な葛藤があり、まさに都落ち状態であった。このときに快く間借りさせてくれた、ガイアックス上田社長は一生の恩人である。

同時に増資、借入以外の資金手当てを準備した。

・個人でクレジットカードを5枚ぐらい作り、カードローン枠を数百万円用意
 →結局MAX借りた。5年後ぐらいに完済

・兄がやっている有限会社に数百万円の現金があった
 →結局ほとんど借りた。半年後ぐらいに返済

・当時いろいろ探すと、ある程度しっかりしてそう&違法ではなさそうな高金利のビジネスローンを発見
 →結局借りなかった。その後この会社は破綻

そしていよいよリーマン・ショックが勃発し、まとまった資金調達は絶望的な状況になり、無理矢理にでも収支を均衡させねばならない状況になった。

コストカット可能で最後に残ったのはメンバーの人件費のみ・・。

計算してみると、役員以外の人件費がちょうど半分になると収支トントンになることがわかった。そこで全体会議で告知することを決意し、3日前ぐらいからあまり寝れずにその日を迎え、宣言した。

「近いうちに資金調達できるか、売上が伸びなければ、2ヶ月後から全員の給料をしばらく半分にせざるを得ない。本当に申し訳ない」

発表したときにはあまり反応らしきものはなかったが、これで誰か辞めるかもしれないと覚悟はしていた。しかしすぐには誰も辞めなかった。当時は全員独身だったことも大きかったかもしれない。

そしてその宣言をしてからも新規のVCには定期的にアプローチしていたが、奇跡的に2000万円を出資してくれるVCがいた。まさに人件費を削減する直前に着金し、最悪まで踏み込まずにすんだ。

さらにその2ヶ月後の2009年3月には売上が急伸し、それ以降キャッシュフローはプラスに転じていった。そして最悪期を脱することができたのである。

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この時期の1年半ぐらいはとにかく資金繰りと資金手当てに追われていて、先も見えず暗闇の中をどうにか出口を探してさまよっていた感覚であった。人生においてTop3に入るつらい時期だった。

ただやめようと思ったことは1回もない。

それはこの会社、この事業を通じて生み出せる価値を信じきれていたこと。また売上は伸び悩んでもPIXTAクリエイターの作品投稿は増え続け、それに勇気づけられたことが大きかった。

この時期の経験を通じ、学んだり得たこともたくさんあった。

・スタートアップで最も大事なことは、何があっても信じ切って続けられる事業選択をするということ(ただしそれは簡単ではない)

・あきらめさえしなければ、大抵のことはなんとか切り抜けられること

・資金繰りにはいくらでも方法はあること

・コスト聖域部分に踏み込む覚悟を持つことで、事業に向き合う本気度もレベルが変わり、それが結果的に成長につながったこと(この時期に開始した施策が、軒並みその後のPIXTAの競争力となっている)

・この時期を一緒に乗り越えたメンバーが、後々幹部となり会社の成長を牽引してくれていること

※この時期にいたメンバーの現在

宮前→初代PIXTA事業部長となり、現在は京都オフィスを立ち上げ、mecelo事業責任者

小張→初代開発部長となり、現在はピクスタベトナムを立ち上げ社長&本体執行役員

岡→コンテンツ部長となり、現在はスナップマートの経営を引き継ぎ社長

佐藤→1回転職したが、おととし戻ってきてfotowa開発リーダー

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そしてこのような時期を生き延びたスタートアップは、本質的に顧客に必要とされる事業であるはずだし、経営者および組織の足腰が鍛えられ、その後業界でもリーディングポジションを取れる可能性が高い。

ということで、スタートアップにとっては当面ハードシングスが続くと思いますが、未来を信じてがんばりましょう。

このブログが少しでも参考になれば幸いです。

fotowa4周年で1歳の誕生日


我が社の新規事業fotowaが、今日2月29日でリリース4周年を迎えた。

いまだになぜかはわからないが、4年前のうるう年の2月29日にリリースしたので、毎年リリース記念日がいつなんだ論争がささやかに沸き起こっていた。

ようやく4年ぶりに本当の誕生日を迎えることができたわけだが、fotowaの状況的にはこの4年間はあっという間で、まだ1年ぐらいしかたってない気もするので、ちょうどいいのかもしれない。

という冗談はさておき、fotowaはPIXTA以外の初の新規プラットフォーム事業である。

PIXTA上にはいろいろな機能やサービスを乗せてきているが、新たなプラットフォームを完全新規で立ち上げたのは初めてである。かつプロダクトオーナーは当時役員でも部長でもない、PIXTAのマーケティング担当であった李という女性に白羽の矢が立った。

新規プラットフォームも初、事業責任者を抜擢して任せるのも初、出張撮影マッチングサービスも世の中的には出てきたばかり、ということで、ちゃんと事業として立ち上がるのかは全然わからなかった。もちろん仮説と見立てはあったけど。

PIXTAからデザイナーの小川とエンジニアの佐伯が片道切符でアサインされ、3人チームで2ヶ月ぐらいで最速リリース。しかし半年間は鳴かず飛ばず。

やはり厳しいかと思い始めた頃、11月の七五三に向けて予約が急激に伸びてきた。
結局初年度の撮影件数は612件、翌年が4772件と飛躍的に伸び、期待の持てる新規事業と位置づけられた。

その後はうまくいくこともいかないこともありながらも、出張撮影の代名詞となるようなサービスとなるべく順調に成長を続けている。

ところで事業責任者の李は僕から見ると、良い意味でパラノイアだ。とにかく偏執狂である。良い意味で。

fotowaにまつわるあらゆるデータ、ユーザーの動向、世の中の動き、競合の状況などをひたすら朝から晩まで収集しまくっている。敵にはしたくないタイプだ。

そしてfotowaというサービスに憑依した状態で日々過ごしているので、誰よりも精度の高い判断ができる。そしてそこまで状況を把握していない役員の意見は、李は話半分で聞いて終わることが多い笑。良い意味で。

そしてその李のもとに、10人以上の多種多様で強力なメンバーが集ってきている。
さらにfotowa事業部外からもマーケ・開発・広報など、PIXTA事業で培ってきた知見を全力で投入している。

出張撮影という文化をつくる目標は壮大ではあるが、この李とメンバー、さらにピクスタの総力を上げたバックアップ体制なら実現できるのではないかと日々思えてきている。

fotowaとメンバーのみなさん、4周年と1歳の誕生日おめでとう。
これからもfotowa事業の躍進を期待しています。

4周年記念に合わせて公開されたインフォグラフィックはこちら

4周年記念に合わせて実施された公式キャラクターデザインコンテスト受賞作品はこちら

執行役員爆誕!

今年から、我が社に執行役員制度が設けられ、4人の執行役員が爆誕した。
せっかくなのでどういう人物なのか紹介したい。

 

1)伊藤 遼 

 

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1988年12月生まれ。
2013年4月 京都大学大学院卒業後にザイマックスグループに新卒入社。株式会社ザイマックス不動産総合研究所でのコンサルティング業務等を経て、Xymax Corporation Singapore Branchに赴任し事業開発等の業務に従事。帰国後は、複数の子会社等を経て、経営企画部に配属。
2018年5月 ピクスタ株式会社に入社。経営企画部にてIR、予実管理、事業企画等の業務に従事。
2019年1月 PIXTA事業本部長に就任。
2020年1月 執行役員就任。

2018年に入社後、過去最速レベルで抜擢され続ける韋駄天人材。
今回も入社後2年立たずに執行役員に指名される。

ビジネスの知見と頭脳明晰による高い分析力を持ち、自身もハイアマフォトグラファーという、まさにPIXTAをグロースさせるべく生まれてきたような男。

唯一の欠点は欠点が見当たらないところか。

 

2)後藤 優一

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1990年生まれ。
東京工業大学大学院在学中にピクスタ株式会社にアルバイト入社。
2015年に同大学院を卒業後、ソフトウェアエンジニアとして正社員入社。開発プロセスの改善や開発基盤の整備に従事。
2017年より開発部技術推進室長を経て、2020年1月より執行役員 CTO 兼 開発部長に就任。
執行役員として次の主力事業の開発に注力しながら、開発部長としてより良いエンジニアリング組織づくりに取り組んでいる。

今回1人だけ20代での執行役員となった。
学生アルバイト時代から目線がはてしなく高く、「エンジニアの人事評価をエンジニアがやらないのはおかしい」といった大物発言を連発。

そして新卒入社後には、ベンチャーあるあるの「ではおまえがやれ」ということでエンジニア評価基準や開発部ビジョンなどを率先して策定し、先導してきた。

新卒2年目に社長に戦力外通告をした男としても有名。

 

3)小張 亮

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1984年7月生まれ。
2007年8月ピクスタ株式会社に入社。
エンジニアとしてPIXTAの企画開発運用全般を担当し、2011年より開発部長としてエンジニア採用やシステムリニューアルに関わる。海外事業部長を経て、2015年よりベトナムに移住し、2016年5月に初の海外開発拠点となるPIXTA VIETNAM Co.,LTD. を設立、General Directorに就任(現任)。2020年1月 執行役員就任。
PIXTAのシステムを支えつつ、新サービスの開発や機械学習・ディープラーニングの活用による新たな価値の創出に取り組んでいる。

幼少から超秀才コースを歩み、ストレートで最高学府に入学するも、1年次にベンチャーに参加し道をはずれた男。
その後スタートアップ創業も経験し、ピクスタ入社後は今のPIXTAの基本部分をメインエンジニアとして作り上げた。

普通の人の10倍ぐらいの速さで物事を理解できる頭脳を持ち、同時に仏のような人格とタフさを兼ね備えた稀有な人材。
5年前に1人でベトナムに乗り込み、ゼロから開発拠点を立ち上げ、今や50人以上のベトナムメンバーを率いている。

今やジム通いで引き締まった肉体だが、10年前は体重が半分で、1日をカップヌードル2食で過ごし、よく風邪で寝込んでいたことはあまり知られていない。

 

4)秋岡 和寿

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1978年7月生まれ。
神戸大学経営学部卒業、グロービス経営大学院経営研究科経営専攻修了(MBA)。
2002年4月に住友電気工業株式会社に入社、法人営業、業務/生産企画に従事。
2005年9月に株式会社グロービスに入社、法人営業リーダー、人材育成・組織開発コンサルティングに従事。2012年にMBAを取得。
2014年6月 ピクスタ株式会社に入社、組織開発室長、経営企画部長、戦略人事部長を経て、2020年1月執行役員就任。

新卒で大企業に入社するも、転職するたびにだんだん会社の規模が小さくなっていくという選択を続けている。
しかし逆にだんだんと裁量は大きくなり、得られる経験値も上がっていくというのは間違いない。

多少不器用なところもありながら、会社の発展のためにはどんなことでもやりきる、という正しい野心の持ち主。
ビジュアル的にもマインド的にも、ピクスタの松岡修造と呼ばれるゆえんか。


ということで、この頼もしい執行役員を加えた経営陣で今後もがんばっていきたいと思っています。

忘年会で役員が体を張ってみたが若干不発気味だった話(思いのほか大作バージョン)

今年10月のリーダー会議のときの話。

※リーダー会議=20人以上各部署のリーダーが集まる月2回の会議

 

今後の納会をどうしていくべきか、という議題を僕から出した。

 

・・・経緯を説明すると、我が社では10年以上、納会というものを開催してきた。

 

最初は10人に満たない頃、毎月末に、メンバー全員でオフィスで料理をして懇親会をすることから始まった。人数が増えてきてからは、四半期ごとにケータリングを取り、部署ごとに企画をしたりして続けてきた。

 

しかし、ここ1〜2年でいくつかの問題が起こってきた。

 

これまで納会は夜に開催してきたが、育児中で参加できないメンバーが増えてきたこと、幹部が海外などに出張が増えて不参加率が高くなってきたこと、部署の企画負担が大きくなり、またマンネリ化してきたことなど。

 

そこでリーダー会議では、納会というスタイルをいったん終了し、半年または年1で社員総会のような形に変えるほうがいいのでは、という提案をした。総会のコンテンツとしては、半期または1年の振り返り、MVPなどの表彰、また出し物などをやれば盛り上がるのではないかなど、割とドヤ顔で説明していたと思う。

 

すると「出し物」というキーワードに反応したエンジニアリーダーの1人であるゴトウが噛み付いてきた。

「出し物ってまさか新人とかにさせるやつですか?それって割と最悪じゃないですか?」

僕としては新人にさせるつもりは毛頭なかったので、つい反射的にこう答えた。

「いや新人に強制させる会社とかってダサいじゃん。役員が率先してやるんだよ役員が!」

 

一瞬沈黙が流れたあと、ゴトウが再度こう言った。

「それは本当にやめてくださいww。みんな引きますよw」

 

その議論はそこでいったん収束した。

 

しかしその後、自分の中で「役員による出し物」がずっと引っかかり続けていた。

ちょうど年末だし、役員総出で体を張った出し物もありではないか、と。

 

今年の9月で上場してから丸4年がたっていた。株価はイマイチさえないが、既存事業は堅調、新規事業はいい形で軌道に乗りつつあり、2020年から次のステージに行ける確信が持てるようになってきた。

 

ここで役員が体を張り、今までにないチャレンジを見せることができれば、来年に向けた良い刺激になるのではないか。また社内に向けて、今いるコンフォートゾーンから脱却すべき、というメッセージにもなるだろう。

 

というような思考を巡らせていたときに、突然体に電気が走ったようにとあるイメージが降りてきた。昭和時代に一世を風靡したの5人組のグループ・サウンズ◯◯◯の歌唱シーンだ。

 

その瞬間、これだ、これしかない、と直感した。

伝説のグループ◯◯◯に扮した役員のエンドウとオンダを見てみたい。

爆笑されるか引かれるのかを確かめてみたい。

そんな思いが止められなくなった。

 

それから数日間、出し物のイメージを脳内でシミュレーションしていった。

 

そして11月も押し迫った経営会議で、その提案をした。これまでピクスタ役員は、自分以外にコスプレなどしたことはない。拒絶反応も覚悟していた。

 

「今年の忘年会は自分と総務チームでプロデュースしたい。そこで役員全員で◯◯◯として登場したいんです」

 

一瞬場が凍りついた。

数秒後、役員のエンドウが、引きつった顔で絞り出すようにこう言った。

 

「個人的には嫌です」

 

ん?個人的には?つまり公的にはOKなのか?

そこで一気にたたみかけた。

 

「今年は粛々と既存事業を進めてきたから、社内の雰囲気的に若干の停滞感もあるかもしれません。そこで役員による、これまでにない挑戦を見せることで、来年に向けたよいメッセージになるのではないでしょうか。

何より絶対にウケる自信があります。だってエンドウさんとオンダさんの◯◯◯ですよ!」

 

いつになく力説していると、役員のウチダが言った。

「古俣さんがワンマンなところを見たの初めてですねww」

 

こうして、役員の中でここまできたらやり切るしかないという空気ができあがった。

 

その後総務チームのケイノ&オクヤマ両氏と準備を進めながら、やる気と不安が交錯する日々をすごした。

 

(社風的にどういう反応が出てくるのかまったく読めない)

(完全にすべったらどうしよう)

(エンジニアがまだ焼きそばを焼いたほうがマシだと思い、職場に絶望するかもしれない)

(これで役員を誰も目指さなくなったらヤバいな)

 

だんだん不安のほうが大きくなり、マイルドな企画へと流れていった。

 

・がんばって歌うのはキツイから口パクにしよう

・歌と同時に今年の振り返りプレゼンを総務チームにやってもらおう

・プレゼンの合間にサビだけ何度か歌うだけにしよう(実際は口パク)

 

こうしてどんどん半端な企画になってしまった。

 

そして忘年会当日。◯◯◯改め、ピック&スターとして登場した写真はこちら。

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※一番右は巻き添えで出演した人事部長の秋岡氏

 

総務チームががんばって衣装などを揃えてくれたため、ビジュアル的にはかなりの完成度になったと思う。

 

しかしやはり出し物としての半端感はぬぐえずに終わった。

(総務のケイノ氏の振り返りプレゼンは90ページ以上の大作で完璧だった…)

 

忘年会が終わってから何人かのメンバーに感想を聞いてみた。 

 

「インパクトはあったけど、何がしたいのかイマイチわからなかったですね」

「歌うのかと思ったら歌わないんですね…」

「総務のケイノちゃんの振り返りプレゼンはとてもよかったです♡」

 

結論としては、爆笑されるでも引かれるでもなく、「おぉ〜、で?」という微妙な状況で終わってしまったのだった。。

 

悔しいので、またリベンジがあるのか!?

 

ということで、やたら長くなってしまいましたが、上場企業の役員というものの日常を少しでもお伝えできたら幸いです。

 

それでは今年も本当にありがとうございました。

みなさまよいお年を!

 

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注:管理担当役員のオンダ
注2:ゲッ◯ではない

 

ピクスタの海外リーダー紹介

ここ数年、本格化しているPIXTA事業ののアジア展開。

まだまだ0→1フェーズなので数値等は公開していないが、確実に軌道に乗りつつある。
 
海外展開は、現時点ではアジア市場を面ととらえ、アジア全域で売れるコンテンツ=パンアジアンコンテンツの創出と、それらを生み出すクリエイター支援に軸を置いている 。
 
そして現在ピクスタの海外拠点は5つ。
開設順にシンガポール・台湾・ベトナム・タイ・韓国である。
さらに各国を周遊する部隊もある。
 
それぞれに責任者がいるのだが、全員30〜40代の精鋭であり、いわゆるエース人材である。もともと海外での採用のメンバーもいるが、何人かは日本の本社から赴任している。
 
日本からの赴任の場合、その部門のエースが抜けることになるので、大きな穴があくことになる。しかしその後、ちゃんと穴を埋められる人材が育つのがまた組織の不思議である。
 
ということで、今回はそれぞれの拠点責任者を紹介したいと思います。
 
○シンガポール
某大手不動産情報サイト企業出身の才女である加藤あすか氏。シンガポールから、各国のWebディレクション・プロダクト戦略を指揮する司令塔である。先日第一子を出産し(めでたい!)、4ヶ月のスピード産休を終えて復帰してくれ大変助かっております。

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○台湾
ラジオ局のディレクターや外資系ゲーム会社でのプロデューサー、某大手ゲームメーカーのアジア担当部長などを歴任してきた越知氏。とにかく明るく前向き、人が大好きエンタメ大好き台湾大好きで、ローカルメンバーをしっかりまとめて成長につなげてくれている。 さらに台湾責任者を兼任しつつ、各国のパンアジアンクリエイターの獲得・育成に乗り出している。 

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○ベトナム
ベトナムはハノイにある開発拠点であるが、責任者は日本の初代開発部長である小張氏。PIXTAの黎明期から、あらゆる開発を担ってきてくれたハイパーエンジニアである。4年前にハノイに1人で乗り込み、今では40人の現地人材を率いている。頭が切れて技術も人格も筋肉もレベルが高い、三国志における趙雲的存在。

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○タイ
タイに生まれ、日本で東大・阪大を卒業したPiya氏。PIXTAにとってタイ市場はまだ不透明であるが、その中でもタイ事情に精通し、日本とのコミュニケーションもスムーズに取れる貴重な人材。不透明な中でも、持ち前のロジカルさでタイ市場の中でも徐々に存在感を発揮してくれている。

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○韓国
若干29歳で初代経営企画部長だった金氏。韓国展開のため、自ら現地リサーチに赴き、買収候補を見つけ、交渉をまとめあげ、自らトップに就くという離れ業をやってのけた。しかもそれから2年で成長軌道に乗せつつある。これほど精神的、肉体的にタフな男は見たことがない(本人曰く、サッカーに打ち込んだ経験の賜物とのこと)。

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○コンテンツ周遊部隊
パンアジアコンテンツをスケールさせるべく、各国を周遊しながら、各地のモデル、カメラマンとコンテンツ撮影をしまくっている部隊がある。責任者は日本で撮影チームのリーダーであった筑城氏。筑城氏は、ピクスタ入社前は、コピーライターをやりながらモデルもこなしていた謎の人材である。抜群のセンスとリーダーシップによって、アジアを席巻するコンテンツ&クリエイター量産を期待。

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ということで、この強力なリーダー陣が全精力を注いでいるアジア展開なので、数年後が楽しみである。
 
余談だが、アジア各国で素材作品の売上が伸びているので、そのうちどこの国or都市で作品が売れたのかを投稿クリエイターさんがわかる機能をつけたいと思っている。

遺伝子がオンになるということ


こんにちは。これがすでに今年2本目のブログということに小さな達成感を覚え、自分の志の低さに愕然とした古俣です。

先日とある会で、かねてから尊敬していたIDOM(旧ガリバーインターナショナル)創業者の羽鳥会長にお会いできる機会がありました。
 
羽鳥会長といえば、現在のスタートアップ業界ではそれほど知られてないかもしれませんが、90年代に中古車買取専門店ガリバーをゼロから5年弱で500店舗まで拡大させたり、設立4年で会社が上場したり、60歳を超えてアメリカをマラソンで横断したりと、不可能を可能にしてきたスーパー起業家なわけです。
 
その羽鳥会長がよく「遺伝子がオンになる」という話をしているのですね。


羽鳥会長の超人的エピソード


羽鳥会長が30代のときに、義兄とやっていた会社が詐欺にあって倒産し、再起を図ろうと中古車販売を始めたが、資金もなくプライドも邪魔してなかなか行動できずに悶々としていた時期。
 
そこにチンピラ風の男がやってきて「羽鳥のやつらは夜逃げしたんだってな」と、夜逃げなどしていないのにそう言われたと。そのとき全身に鳥肌がたち、体中の血が逆流するように体が震え、怒りがこみ上げてきたそうです。そして「俺は絶対に再起してみせる」と決意したと。
 
そのときに火花が散るように自分の遺伝子がオンになった、と羽鳥会長は言っています。
 
遺伝子がオンになる、というのは、筑波大学の村上教授という、長年遺伝子の研究をされてきた方が提唱されている話で、すべての人間の遺伝子は99.5%が同じであると。そしてほとんどの遺伝子は眠ったまま一生を終えるのだそうです。しかし偉大な成果を出す人間は、何かのきっかけで眠っていた遺伝子がオンになったからだ、ということだそうです。
 
羽鳥会長は遺伝子がオンになった結果、超人的な行動力を発揮し、まずは1万円で仕入れたカローラを知人に頼み込んで45万円で買ってもらうところから始め、普通は1人で月に3〜5台売るのが限界である中古車販売を、1人で月50台、年間600〜700台を売り切り、その結果、3年間で3億円の借金を返済したという驚異的なエピソードがあります。
 
僕はその話をまだピクスタ創業の頃に雑誌で読み、人間その気になればどんなことでも実現できるものだと、とても勇気づけられことを覚えています。
 

19歳のときのイスラエル体験 


そして振り返ってみると、自分にも実は遺伝子がオンになったのかもしれない瞬間が2回ほどありました。1回目は19歳のときに初めての海外体験で行ったイスラエル旅行、2回目は23歳のときにたまたま入社したガイアックスという会社での初めての営業体験でした。
 
自分は高校入学のときから、何に対しても意欲が持てず、悪友とだらだらと街を徘徊したりゲーム三昧の日々を送ったりと、どうしようもない時期を数年間すごしていました。そのままなんとか大学には入れたものの、堕落した日々は改善されず、なんと大学1年生でいきなり留年してしまったのです。
 
そのときはさすがに反省したものの、かといって生活がそれほど変わることもなく2回目の1年生の夏を迎えていました。そのとき、たまたま叔母がイスラエル人と結婚してイスラエルに移住しており、そろそろ1回遊びに来なさいと打診がありました。
 
海外に行ったこともないのにいきなりイスラエルか、、とだいぶ渋ったものの、留年した負い目もあるし、親からも行ってこいと半ば強引に進められたので、渋々行くことにしたのでした。
 
そして1ヶ月間、いろいろ大変な思いをしながらも、1人でイスラエルの各地を回ってみたのです。
 
3つの異なる宗教が共存している聖地エルサレムであったり、周囲が敵国だらけの国境近辺では、自分と同世代の若者が銃を装備して厳戒態勢を敷いていたり、途中で叔母に紹介してもらった現地の大学生から、不足する水資源を確保するためのバイオ研究の施設を見せてもらったりと、日本で暮らしていてはまったく触れることのなかった、世界の現実をリアルに感じることができたのです。
 
また、どこに行くにも人に聞かないとわからない、バスだろうがタクシーだろうが、自分の希望を片言の英語でしっかり主張しないと動いてくれない、という現実に、日本でのほほんで過ごしていた19歳の自分が直面したのです。そこで覚悟を決めて開き直った結果、相手が誰であろうが片言だろうが堂々と主張する、という図太さと自信がそのときに身につきました。
 

自分の遺伝子がオンになった瞬間


その体験を通じ、不思議なことに、それまでの閉塞感しかなかった人生がぱっと明るくなり、大きく視界がひらけたのです。世界はこんなにも広く、日本とはまったく異なる現実がそこにあり、また同時に大きな可能性に満ちているのだと実感できたのです。そして自分もその広い世界で挑戦することができるかもしれないと。
 
日本だけで過ごしていると、日本特有の同調圧力により、いかに人と同じかが問われ、本当に自分らしい生き方を無意識にあきらめていたのかもしれません。しかしイスラエルに行き、世界の多様性に触れることで自分の遺伝子がオンになり、本気で自分の生き方を考えられるようになったかもしれません。
 
そしてイスラエルから帰国するときには、自分は事業家として生きよう、と決意していたのです。それからは悪友に誘われても一切断るようになり、自分で事業を立ち上げるためだけにほぼすべての時間を投下するようになりました。
 
もう1つのガイアックスの営業体験による遺伝子オンの経験については、長くなってしまったので、また別の機会で書きたいと思います笑。
  

遺伝子がオンになる人材


そして、ピクスタを創業して13年半の間にも、遺伝子がオンになったであろうピクスタメンバーが実は何人もいるのではないかと思っています。あるとき急に行動や姿勢が大きく変化し、それまでの何倍ものスピードで成長する人材が定期的に出てくるのです。
 
そういった人材の共通点は何かと考えてみると、
 
  • それまでに、マグマのように溜まった思いや鬱屈した何かを持っていること
  • そこにストレッチした挑戦の機会が生まれ、そのストレスに負けずにやりきったこと
  • 自身の使命感、生き方が、そのミッションにマッチしていること
 
があったように思います。
 
1回遺伝子がオンになった人材は、それが長期間持続し、数年たつと見違えるような成長を遂げています。
 
そして全員が全員そうなれるかはわかりませんが、経営者の役割として、1人でも多くのメンバーにそのようなきっかけを提供したいと思っています。
 
みなさんも遺伝子がオンになったような経験はありますか?

クリエイター向けの祭典「PIXTA DAY」の開催と大事な原点の話

先日、PIXTA&fotowaに登録いただいているクリエイター向けのイベント「PIXTA DAY」を開催しました。

去年までは「PIXTAクリエイターAWARD」という名称で毎年実施してきましたが、今年は大幅に内容をアップデートしました。
 
今回は表彰だけではなく、クリエイター自身によるセミナーを実施して、相互に学び合いの機会をつくったり、表彰もトップランキングに加え、新人賞やユニークコンテンツ賞など、いろいろな形でクリエイターさんを表彰し、日頃の感謝を伝えることができました。
 
参加人数も過去最高の100人超えと、過去最高に充実したイベントになりました!
 
総責任者の川西くん大変おつかれさまでした!
 
※詳細はこちらの記事から見れます
 
今年もそうでしたが、PIXTA&fotowaを支えていただいているクリエイターのみなさんと1年に1回接することで、僕らの原点を改めて思い返すことができます。
 
僕らが実現したいことは、単に写真を売ったり撮影を仲介することではなく、「才能をつなぎ、世界をポジティブにする」という理念であらわしているとおり、埋もれた才能に光をあて、様々な感動を生み出し、ポジティブな世界に変えていくことです。
 
※理念に込めた思いは下記ブログをぜひご覧ください
 
今回のイベントで、多様な表彰を行ったことで、遠くからもたくさんのクリエイターさんにお越しいただき、僕らは実際にたくさんの才能をつなげていること、そしてまだほんの一部ですが、ポジティブな世界を少しずつでも生み出せていることが実感でき、本当にうれしかったです。
 
これからも様々な才能を世界につなげるべく、メンバーと一緒にがんばっていきたいと思います。